BVLGARIの“母の日”メールへの配慮から考える社会のUX
2023.04.17

BVLGARIの“母の日”メールへの配慮から考える社会のUX

イタリアを代表するラグジュアリーブランドBVLGARI(以下、ブルガリ)から、「ブルガリ メール受信設定に関しまして」という件名でメールが届きました(*1)。

見出しの画像のとおり、「お客様のご意見をお知らせください」と題して、以下のメッセージがありました。

お客様のご意見をお知らせください

ブルガリでは、イベントの重要性や過ごし方は人それぞれであることを尊重しています。 以下のリンクをクリックすると、ブルガリからの母の日に関するご案内を配信停止することができます。 その他のメールは通常通りに受信でき、引き続きブルガリの最新ニュースをお楽しみいただけます。

【母の日メールの配信停止】

「お客様のご意見をお知らせください」とありますが、実際に配信停止ボタンをクリックすると、一般的なメールマガジンの配信停止画面と確認ボタンが表示されるのみで、自由記述欄などはありませんでした。

あなたはブルガリのこの「配慮」を、どう思いますか?

さすがは一流ブランドと感じる方もいれば、やりすぎ(気にしすぎ)だと感じる方もいるかもしれません。

この一件での僕の結論は、自分でも意外なことに「本を読もう」というものでした。そこに至った経緯をお伝えします。

認識の変化とパーソナライゼーション

今回のブルガリの行為は、端的に言えば「停止オプションの提示」。あくまでも判断をこちら(ユーザー)に委ねた、選択肢の追加です。

世界中にファンを持つブランドだけに、ユーザーの多様性への配慮と考えるのが素直な見方でしょう。やや穿った解釈としては、社会認識として、「母の日メール」が不要なだけでなく、不快、見たくないと感じる人の数が、無視できない規模に達した、その(社会)変化への対応とも受け取れます。

こうしたパーソナライゼーションを可能にするテクノロジーの発展もありますが、仮に技術の問題だったなら、数年以上前にはすでに(やろうと思えば)可能だったはずです。

今回たまたま「母の日」が対象になりましたが、問題は「これを皮切りに、なにが(どこまで)起こるのか?」です

なぜ、バレンタインデーではなかったのか

「母の日」を祝う習慣がない、祝いたい母親ではない、そもそも(すでに)母親がいない、という人にとって「母の日メール」は不要なノイズであり、停止オプションは有効だと考えられます。

しかし、2月には「バレンタインデー」がありました。そのときもブルガリからメールは届きましたが、今回のような事前の「停止オプションの提示」はありませんでした(*2)。

なぜ「母の日」は配慮され、「バレンタインデー」にその配慮はないのか。不要なノイズである、という点においては、「バレンタインデー」に関するメールを不快に感じたり、不要とする人もいるはずです。

合理的に考察するなら、先述したように「(今後)どこまで配慮するか」の線引きを、個人の「宿命性」に置いたとみるのが妥当です。

「宿命性」ではなく個人の「認識」まで考慮すると、文字どおり「きりがない」ですから。

雨の日が嫌い、月曜日が嫌い

「バレンタインデー」でトラウマになるような、嫌な思いをしたことがあるから、「バレンタインデー」に関する連絡は見たくない。そういう人も少なからず存在するでしょう。

けれど彼ら/彼女らの「認識」を配慮するならば、同様の理屈で「雨の日が嫌い」「月曜日が嫌い」「ハーフパンツが嫌い」という人についてまで、フォローする必要が生まれてきます。それは常識的に考えてやり過ぎです。

ゆえに、本人の望む、望まないに関わらず、存在する事象。両親の不在や人間性、生まれながらの境遇や障害の有無など。そうした「宿命性」の強いものが、「配慮」の対象となったとみると無理がありません。

同じく宿命性が高く、配慮に値する「子供の有無」などは、オプトイン時のアンケート回答で事前にフィルタリングをかけることが可能ですが、母親の有無、まして母親との関係性を(たかが)メールマガジンのオプトイン時に質問することは通常ありませんし、今後もないでしょうから、別途停止オプションを提示する以外なかったのでしょう。

ユーザーの見たくないものを、見せない

今回ブルガリは、ユーザーに対し「特定の情報を避けられるようにする」オプションを提示しました。ここで言う「特定の情報」とは、ただ不要なだけでなく、控え目に言えば「気分を愉快にしない情報」です。

そうした情報は「避けられるようにする」ことが、ブルガリは「UXを高める」と判断したと言えます。

「見たくないものは見たくない」「見たいものだけ見たい」。それだけ聞くとごく当然の要望に思えますし、幅広い世代で情報入力の中心がSNSとなっている現代では、アルゴリズムにより「見たいものだけ表示される」世界にすでに我々は慣れきっています。

そうした意味においては、情報の取捨選択を〈自分で〉行わなけれはならなかった、情報のパーソナライゼーションが行われていなかった前時代と比較して、一般市民の無知の程度は高まり、世界は狭くなっているという見方もできます。

僕らが忖度される世界

今回のブルガリの一件は氷山の一角であり、今後ますます良かれと思って自分に忖度された情報しか入ってこなくなるのでしょう。

「見たい世界」だけを見せてくれる。それで表面的には、僕らのUXは高まるかもしれません。けれど見えないところで、社会が分断されていく危険性を孕んでいます。

社会が分断されれば、対立が起きたとき、自分(たち)の世界が大切であり、それを守ろうとするのは大衆にとって自然な発想です。けれどこれは戦争の論理でもあります。

ChatGPTも将来的には、使用するユーザー個人にパーソナライズされた情報を出力するようになるでしょう。そうなったとき、世界を「つなげた」インターネットは、再度、世界をばらばらにする可能性がないとは言い切れません。

自分を社会に放り込む

パーソナライズされていない情報を能動的に取りにいく。そうしなければ、「社会」について考えることが難しくなります。

では、パーソナライズされていない情報とはなにかと言えば、無数に存在しますが、筆頭はやはり「本」です。さまざまな主張の本を読む。客観的に、冷静に、それでいて情熱を持って書かれた書籍を読む。古今東西、変わらずそれが「社会」への理解を深める方法です。

今回のブルガリの一件が、英断なのか、愚策なのか、それとも無害な風のようなものなのか、現時点では僕は判断を保留にしています。

ただ言えることがあるとすれば、我々個人のUXは、あくまでも社会のUXのなかにある、ということです。社会のUXを考えられる人であることが、より多くの人のUXを高められる人であるはずです。

そして、そうありつづけるためにも、よりいっそう、パーソナライズされていない情報を、能動的に取りにいこうと、あらためて考えました。

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*1──2023年4月13日18時02分に筆者個人メールボックスにて受信。
*2──2023年1月27日09時07分に筆者個人メールボックスに「ブルガリ 愛の素晴らしさを祝福」の件名にて受信。

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