誰ももう、ウェブサイトには自分から行かない
2023.02.27

誰ももう、ウェブサイトには自分から行かない

前回の記事「ChatGPTの生み出す記事がWeb上を覆い尽くしたとき、なにが起こるのか?」では、ChatGPTが要約した文章を、さらに要約して受け取ることで、本来あったはずの筆者の「熱量」が奪われ、僕らは効率的に物事を識ることができるようになるかもしれないものの、人生を変えるかもしれない「きっかけ」を失うことになる──という考察を行いました。

しかし先の記事を書いてまだ一ヶ月ほどですが、早くも自分の未来予測がいかに「的外れ」だったかと赤面しています。結論である「僕らは〈きっかけ〉を失う」に関しては、主張に変更はなく、現時点でも通用すると考えています。

しかし前段となる、「WikipediaはChatGPTが更新する」「要約を要約して読む人間」については、まるでわかっていなかったと反省しています。恐らく、そういったことは起こりません。現象としては十分に発生し得ますが、仮にそうなったとしても意味はないのです。

つまり、ChatGPTが有効に機能するならば、僕らはWikipediaを見る(アクセスする)必要がありませんし、検索するかさえ怪しくなります。この点については王者Googleも「コード・レッド」を宣言するほど重大な事態に捉えています。

ウェブサイトに自分から行くことはない

5年前、2018年時点ですでに「FREE(フリー)」や「ロングテール」といった概念の生みの親であるクリス・アンダーソンは、WIREDのインタビューに対して「ウェブサイトに自分から行くことはない。子どもたちも、ウェブサイトには行かない。誰ももう、ウェブサイトには自分から行かないんだ。」と発言していました。

ウェブサイトには自分から行かないのであれば、どうするのかといえば「ウェブサイトが自分のところに来る。より正確には、ウェブの記事がぼくのところにやって来る。でも、自分から「WIRED」って打ち込んで飛ぶことはない。ぼくは基本的にソーシャルメディアの住人で、誰かが送ってくれた記事がよければ、フォローしたりしている。(…)ぼくも『WIRED』の記事はよく読むけれど、それはすべてソーシャル経由だ。」と言います。

誰ももう、ウェブサイトには自分から行かない。SNSがハブになり、そこでシェアされる記事、話題になっているページだけがウェブ上に〈存在〉できるのです。

これまでは辛うじて問題を解決するページだけが、検索という行為を通じてもウェブ上に〈存在〉することができていましたが、それもChatGPTにより、今後は検索もされなくなるかもしれません。そうなると、いよいよウェブサイト(コンテンツ)は、閉じられたソーシャル(SNS)のなかにしか存在しなくなります。

ソーシャル(SNS)でバズったり、シェアされたりしないものは、〈存在〉しなくなる。これまでもそうだったと言えなくもありませんが、近い将来本当に人々が「検索」しなくなれば、辛うじて存在していたコンテンツも相当に厳しい状態になるはずです。

とはいえSNSは牛耳られている

ウェブサイトがソーシャル(SNS)のなかでしか、存在できなくなっていくとすると、プラットフォーマーの影響力がますます高くなることを意味します。これはweb3時代の流れと逆行します(プラットフォーマーにとっては好都合かもしれませんが)。

では個人の発信者、コンテンツホルダーは、ソーシャル(SNS)でのプレゼンスを高める以外に何ができるのかといえば、自分のプッシュ型メディアにオプトインしてもらうことが第一に挙げられるでしょう。メールマガジンへの登録や、LINEグループへの参加です。

とはいえ、その小さな狭い世界でしか〈存在〉できないと考えたなら、やはり窮屈さを感じざるを得ません。

“生産”に参加できなくなっていく

一方で仕事に目を向けると、office系を主体としたデスクワークは言うまでもなく、一部のクリエイティブ系、エンタメ系も、代替されていくことになるでしょう。誰もが「優秀なデスクワーカー」を手に入れたわけであり、さらに進化もしていくのですから(さらに今のところ無給)、そちらに流れないわけがありません。

いや、ChatGPTだけでなく、AI(の仕事)には「情緒」がない。という反論もあるかもしれません。確かに今のところはそのとおりです。けれど、情緒性が求められる仕事は基本的にサービス業が中心であり、一対一対応の世界でレバレッジが利かないために、労働単価はよほど特殊な状況を除いてとても安価になります。

ではChatGPT、AIにできないこと(仕事)はなんだと言えば、独創的な未来を描き、それを実現することで。しかしそれは人間にとっても、みんながみんなできることではありません。

つまり、代替可能なデスクワーク能力を超えて、付加価値を生み出せる力がなければ、そもそも「生産」に参加できなくなる可能性があります。もしくは、AIに代替させるまでもない、低単価の仕事に従事するしか。

ベーシック・インカムが機能し、社会保障も充実した世界であれば、こうしたテクノロジーの発展は「我々をようやく労働から解放させる」ユートピアの実現ですが、残念ながら前提条件が満たされていない以上、待っているのはディストピア的未来かもしれません。

身体感覚を伴う感動をいかにクリエイトするか

では、我々にはもう為すすべがないのかといえば、まだ希望はあります。得意なフィールドに持ち込めばいいのです。それはどこか。身体性です。

身体感覚を伴う感動。この領域までも代替されるのは(メタバースなど)、まだ暫く時間を要するでしょう。僕らは誰しも「感動したい」と願っています。自分を感動させてくれるモノやサービス、コトを常に待望しています。企業として、個人として、その答えをどう提示するのか。

一つのヒントが──いつも同じ結論に到達しますが──「UX」なのです。

感動するほどの経験をクリエイトする。その創造性と探究心に、特別な技術は必要ありません。ユーザーを想う気持ちと、人を愛する姿勢があれば。

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