“不便”と“不快”を、田舎暮らしの視点で考えてみる【ネバネバ滞在期 vol.3】
2021.01.27

“不便”と“不快”を、田舎暮らしの視点で考えてみる【ネバネバ滞在期 vol.3】

「田舎で暮らしたら、豊かになれるのではないか」という仮説を持って、移住を検討する人は多い。コロナで生き方について考える機会が増えたからなのか、移住にまつわる相談事が増えている。

そのとき僕が決まって伝えるのは、

「移住すれば、豊かになるわけじゃないですよ」

ということ。

僕自身、移住してから年々「豊か度」は高まっているし、2020年はコロナが起きたことで出張がなくなり、田舎での滞在時間がいっそう増えて、人生で一番豊かな一年間を過ごせたとさえ思う。

田舎暮らしの中には豊かさを感じる瞬間と、不快を感じる瞬間がある。この記事ではそれぞれの事象から、「不便」と「不快」の関係性について考えてみる。

当たり前だけど、田舎は不便

 僕が住んでいる長野県根羽(ねば)村は、最寄駅まで車で一時間。近所のコンビニまで車で三十分。スーパーは小さい商店が二つ村内にあるだけで、充実した品揃えを求めるなら、車で四十分かかる。

ちなみに移住前は渋谷区の代々木上原に住んでいた。コンビニまでは徒歩五分。美味しいレストランなんて無限にあった。

比較するまでもなく、根羽村の方が住むには「不便」。どう考えても。

では不便な結果「不快」なのか? というと、全然そんなことがないのだ。もちろん、最初は戸惑いや変化、不慣れなことでの不快はあった。けれど順応していくと、めちゃめちゃ快適になっていく。不便をカバーできる工夫力が身についてきて、快適にする力が高まっていったのだろう。

つまり、必ずしも「不便=不快」ではない。しかしながら、「不便」が「不快」になるシチュエーションも現実にはあった。その最たる例は「想定外」が発生したときだ。

不便=不快になった事件

 手違いによって電気代の支払いが滞り、当日中にコンビニで利用代金を払わなければ、電気が止まってしまう、という状況に陥ったことがあった。

サービサー(電力会社)としては「緊急だからこそ、どこにでもあるコンビニで支払えるようにしよう」という優しさの設計だったのだろう。しかし、僕の村にはコンビニがない。その結果、すぐさまスケジュール調整をして、急遽往復一時間かけてコンビニに行かねばならなくなった。

この時ばかりは「あー、コンビニが近くにあればいいのに……」と心底思った。その心情は「不快」につながった(そりゃそうだろう?)。

田舎暮らしの知られざる醍醐味

 しかし、こうした経験を積み重ねるなかで、行動変容が起こる。不便を愚痴るのではなく、不便に適応し、それらを不快の心情につながらなくさせるための工夫である。

先ほどのコンビニ支払い事件を契機に生まれた行動変容は「計画性」だ。「いかにコンビニでの支払いを発生させないか。そのために、引き落としで済ませられる手続きを確実に成立させるか」を考えることになったし、仮にコンビニでの支払いが必須であれば「他の用事といかにまとめるか」を計画をするようになった。

そうすることで、コンビニがないことを恨む状況に出くわすことがなくなる。不快が生まれないシチュエーションをいかに工夫してつくるか。これも田舎に住む楽しさの醍醐味なのだ。

“不便 or 便利”ではなく“快適 or 不快”

「サービスの不便さは、生きる工夫によってカバーできる」。その工夫を僕らは「生きる力」と呼ぶのだろう。

「生きる力」の成長を感じることこそ、「不便の中にある快感」を得る瞬間だ。自分の成長を実感できるし、便利を手放したことで身軽になった気持ちにもなれる。二年目の田舎暮らしが一年目よりも豊かだったのは、不便を快適にする「生きる力」を身につけたからだと思う。そういう意味で、村のおばあちゃんたちの生きる力はハンパないのである。

ただの稲刈りの姿なのに、美しいでしょ?

三年目に入った僕のチャレンジは、「めちゃくちゃ寒い」という不便な環境の中で「白い息を吐きながら焚き火で暖をとる」という行為だ。寒い、寒いと思いながら、必死に火をつける。これが本当に不便で快適で幸せなのだ。

「便利な生き方」ではなく「快適な生き方」に向き合い、日々を暮らし生きる。それが、田舎暮らしの不便で快適な日々なのだと思う。

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