10年前からタイムスリップ
僕(SOU)は18歳で日本を脱出し、約10年間「外国人として」主に中東イスラエルで暮らしていました。世界屈指のタフさを持つイスラエル人たちと向き合いながら、時には受け入れ、時には渾身の力で完全拒否しつつ、現地人のような生活をしていました。日本に帰ってきたのは5年前です。
帰国後、記憶のなかの日本(10年前)との違いで、とりわけ驚いたことがありました。それは「日本人よりも多いんじゃないか?」と目を疑ってしまうほど、街に溢れかえっている外国人観光客。
さらに、移住する思いで日本の学校に進学している外国人や、日本企業に勤める外国人の多さにも。日本人の外国人アレルギーもずいぶん緩和されたのか、と思いきや、どうやらそうでもなさそうで……。
日本国民に向けられている苦情
十代後半から二十代後半という、多感な時期を海外で過ごした僕の「外国カブレ」は相当なもの。日本人との時間が楽しいのはもちろん、外国人と過ごす時間もまた、自分らしく居られる大切なひとときです。
そんな彼ら、日本在住の外国人の仲間と話していると、ときどき日本への「カスタマーサービス担当(不満受付係)」になる瞬間があります。そして代表的な「お怒り」内容は……
「日本は大好きだけど、日本人は外国人をいつまで外国人として扱うの? こんなの私たちの国じゃ差別だよ?」
僕は「おっしゃるとおりです」と答えるほかありません。
何気ない日常的差別の国
多民族国家の出身者には、日本のような民族主義的で旧時代の風習が根強い国の「外国人」に対する対応は、違和感を超えて「差別」に感じているようです。
しかし、日本人には差別意識がない人がほとんど。外国人や本当の外国文化に接した経験がなく(あっても少なく)、「どうすればいいかのわからない」「わからないことはスルー」という日本人気質が、外国人から「これ、差別じゃないの?」と眉をひそめられています。
外国人が電車で座っているとき、隣に誰も座らない。
こんなシチュエーションをあなたも目撃したことがありませんか。あるいはあなた自身、電車やバスで座ろうと思ったときに、外国人だったから(隣に)座るのをやめた経験は?
こういった行動も、彼ら(外国人)は「これ、差別じゃないの?」と感じています(僕の外国人の友人たちも、頻繁にこのことを口にします。そして「隣に座ってほしい!」とも)。
スルーではモッタイナイ
きっと数年後には、言語の壁を取り払うほどの、画期的なプロダクトが開発されるでしょう。でも、今の日本のような外国人を「スルー」している社会では、仮に言葉の問題がなくなったとしても、外国人と過ごすなかで得られる、世界観が広がる歓びまでもが「スルー」されてしまう気がしています。
それは、本当に、もったいない。僕みたいな外国カブレは、心底そう思うのです。
僕自身、7年間もイスラエルという国に住み、ヘブライ語を話していても、ずっと外国人扱いされていた部分もありました。けれど、同時にめちゃくちゃ溶け込んでいた部分もたくさんあります。
本当の仲間として受け容れるられる歓びは、最高じゃないですか。この感動の共有に、人種や民族は関係ありません。僕にとってUXは日本人だけではなく、人類のUXを意識したものでありたいと思ってます。
「UX」の使い方が、これで合っているのかはわかりませんが……。
考えるべきは日本人だけのUXではなく、人類みんなのUXで。