ペーパードライバーが訴える、こうすればもっと運転したくなるクルマのUX課題
2022.09.02

ペーパードライバーが訴える、こうすればもっと運転したくなるクルマのUX課題

クルマの運転が苦手な人は多い。かくいうわたしも、運転が怖くて、億劫で、遠ざかっているうちに長らく「免許証=身分証明書」になっていた。それでも(免許を持っている限り)運転が必要なときは来る。自分の人生のハンドルは自分で握らねばならない、のだ。

元ペーパードライバーの一人として、「クルマはもっと、わかりやすくなれよ」と思う。クルマ業界人でも、HMI(ヒューマン・マシン・インターフェース)の専門家でもない、ペーパードライバー目線でのクルマのUX論だ。

クルマはどこでもドアの妥協版

クルマの価値は色々ある(機能的価値、エンタメ的価値、自己実現的価値など)が、話がふくらみすぎてしまうので、ここでは「移動(目的地への到達)のサポート」という面に限定して論じていく。

人間の徒歩移動は時間がかかる、疲れる、荷物が運べないといったペインがあった。最初にそれを解決したのは馬だ。速度・持久力・積載量が向上し、先のペインは一定解消した。

その後、1769年にフランスで蒸気で走る自動車が誕生。「無馬車(馬を用いざる車輌)」として日本に輸入されたのは明治31年(1898年)。当初は時速10km/h以下の、屋根もないシンプルなもの。それが技術革新を重ねまくった結果、今日の姿になったらしい。

でも本当のところ、みんなが求めているのは「どこでもドア」だ。思いついたら秒で移動できる。何の訓練もいらない。ラクに努力せず行きたい場所にテレポーテーションできる。これが移動における最高のUXであり、人類の夢。

そう考えると、クルマはまだまだ発展途上どころか、クルマの進化の延長に果たして「どこでもドア」があるのかは怪しい。それでも、「どこでもドア」が備える(タイムラグがない・ラク・訓練や努力不要・他者の影響を受けない)といった要素のうち「ラク・努力不要」については、現在のクルマでも近づける余地が大きいはずだ。

クルマの困ったエクスペリエンス

自家用車を持っていないわたしは、2〜3ヶ月に一度、レンタカーを借りて運転する。クルマに全く興味がないうえ、教習所で習ったことはほとんど忘れているペーパードライバーが、毎回違うクルマに乗ると、まあ困る。実際の失敗談はこんな具合だ。

(1)ギアをNに入れたまま出発しようとして、無駄に大きい「ブオーン!」というエンジン音を鳴らす(「Nってなんだっけ?」状態のわたしに不穏な表情をするレンタカースタッフと群衆)

(2)サイドブレーキをかけたまま前進し、「ピー…ピー…」と鳴り続ける警告音に異常を感じるも意味がわからない。「クルマ ピーピー音」で検索しても解決せず、レンタカー店に電話で尋ねる(「サイド」ブレーキが足元にあるのが悪い)

(3)エンジンキーの回し方が不十分で、ダッシュボードのほぼ全てのアイコンを点灯させテンパる。人生で初めてクルマの取扱説明書を引っ張り出した

極め付けは、

(4)トンネルに入った瞬間フロントガラスが曇り、文字どおり目の前が真っ白に。前方が見えずパニック(空調が問題なのはわかるも、どのボタンやダイアルを回せばいいのかわからないし暗くて見えない!前を見てないと怖い!でも見えない!)

「ちゃんと復習しようよ」「危ないよ」という、ごもっともなご指導ご鞭撻は脇に置き、今回は「なぜラクに努力なしでは操作ができなかったのか」を考えてみたいと思う。

困ったことが起きる原因

機械と人間の対話がうまくできなかった。わたしが直面した課題は、シンプルにいうとこれに尽きる。

(1)〜(3)はフィードバックの課題
クルマ側からは今起きている事象をドライバーに伝えようとしている。しかし人間が理解できる言語ではないため伝わっていない。「ピーピー」じゃなくて「おーい!サイドブレーキおろしてよー!」といってくれたら一発でわかった。

(4)はメンタルモデルの課題
「現在の空調設定と気温差とかを判断すればボタンで操作できるよね?」と思っている設計者の頭の中と、わたしの期待値に乖離があった。あの余裕の無い状況でも「フロントガラスの曇りを取って!」という口頭の指示くらいなら出せたと思うが、それを受け取っていい感じに動いてくれる機能は設計されていなかった(アクセルとブレーキの踏み間違えや窓の開け閉め操作間違いもこの部類に入ると思う)。

現在のクルマは教習所で訓練され、専門知識を身につけて試験に合格し、練習を重ねて問題なく操作できるユーザーを大前提としている。

命に関わることなので、この前提が重要(守られるべき)であることは事実だが、一方で先の前提(操作ミスはドライバーの責任)に頼りすぎて「機械と人間の対話をしやすくする」観点が不足していないだろうか。

直感的わかりやすさにしのぎを削るソフトウェア界

視点を一度クルマから離して、ソフトウェア(特にウェブ)業界に移してみよう。

1995年頃から一般に普及し始めたものの、インターネット黎明期のウェブサイトはひどくわかりにくく、使いづらいものが多かった。けれど、ユーザー体験が売上に直結する事業者(ECサイトなど)を筆頭に、画面インターフェースの品質(使い勝手)向上は飛躍的に進められた。

ユーザビリティ(使いやすさ)の代表的書籍に『DON’T MAKE ME THINK』がある。人間の脳みそはラクをしたいので基本的に省エネモード。考えさせる、迷わせる、悩ませることは、脳に理解や認知の負荷をかけることになるので、離脱に直結する。一度離脱したユーザーは基本的にもう戻ってこない。

今日のウェブサイトやアプリが(概ね)初心者でも説明書や訓練もなく、一人で操作を完結できるのは「いかに人間にとって直感的に理解できてミスなく操作できるか」を改善してきた賜物(たまもの)だ。

ちょっとした言葉遣いや文字の大きさ、情報の見せ方、ボタンのデザインなど、細部に渡りミリミリと改善を重ねたからこそ「ふつうに使える」を実現できている。

クルマの恣意的なUI

他方、クルマのUIはどうか。誰でも直感的に理解できる部分は少なく、恣意的に割り当てられたインターフェースを学習しなければならない部分が多いことに気づく。

例えば、ギアが前方についているクルマだと上下の操作になるが、横についている場合、ギアは前後の操作になる。また、「外気を取り入れる」「車内の空気を循環させる」といった空調関連のボタンは、小さなアイコンを読み取って押さなければいけない。

一番大事なアクセルとブレーキは、わずか数十センチの配置場所とペダルの形状しか違いがないが、押した(踏んだ)際のアクションは真反対である。

専門知識が必須で、学習していない(覚えていない)ユーザーには意味がわからない。誤解を恐れずに言えば、現代の複雑なクルマは、初見でとっさに理解・操作できないインターフェースの集合体になっている(少なくともわたしにはそう見える)。

出自のちがい〜物理的道具からの変化〜

なぜクルマ業界では、ユーザーフレンドリーでない(学習コスト・認知負荷が高い)製品が長年生産され続けているのか。

ソフトウェアと比較して考察してみると、大きく分けて二つの要因が考えられる。

一つ目は、クルマはかつて手触り感のある物理的な道具から始まったが、技術進歩とともに機械へと遷移してきた。そして今は認知的人工物になりつつある点だ。

認知的人工物とは

コンピュータは情報を保持、表現、操作するための人工物である。コンピュータは、人間の記憶や知識、情報処理能力などを補強・拡張する物であり、こうした特徴から認知的人工物(Congnitive artifact)と呼ばれる。認知的人工物は、直接知覚でき操作可能な画面表示がユーザーとのインタフェースとなるが、その画面表示を見ながら実際にコントロールしているのは、ユーザーが知覚できない内部の処理プロセスである。ユーザーが操作したことによる結果は知覚できるのだが、そのプロセスはユーザーからは全くわからない。これはコンピュータ制御の機器の特徴である。

『UXデザインの教科書』安藤 昌也 (著)

馬車の時代はわかりやすかった。車輪のついた箱をつないだ馬が、前に歩くときに引っ張られる動力を利用して移動する。極めてシンプルで、子供でもわかる仕組みだ。

それが蒸気、電気、ガソリンと発展するとともに複雑化。フットブレーキは間に複雑な制御装置を挟んでいるので実は直接タイヤを制御しているわけではない、など一般人の理解をどんどん超える領域へ。現在は運転アシスト機能やら音楽やテレビやDVDを流す機能、自動運転技術などの発展で、ますますコンピュータ制御機器に近づいている。もはやクルマは一般的なユーザーが仕組みを簡単に理解できるプロダクトではなくなった。もちろん、クルマ業界でもUX改善は日夜行われているだろう。だが現状はどうしてもユーザー側が努力してついていかないといけない主従関係のような構図になっているのが一つ目の要因ではないかと思う。

ソフトウェアは初めから認知的人工物であり、(GUIでは)画面上の表示とキーボード、マウス操作しか接点がなく、プロセスが知覚できないなかでの戦いだった。いかに平面のモニター上でわかりやすくするか。人間の認知情報処理の特性を理解したうえで、デザインできるかが命だった。

学習プロセスのちがい〜指導者の存在〜

クルマは専門家の指導を必ず(対面で)受ける仕組みが整っている。免許制になっていることで、まったくの初心者を排除できる。これがソフトウェア業界との比較における二つ目の大きな違いだ。

初心者が学習する際には、専門家が座学と実技で手厚くサポートし、習熟度のチェックまで行ってくれる。これだけ強制的かつ潤沢に補完されるのだから「分からない・使えない」は事前に潰せるはずだ、と(理論上は)。

これはソフトウェアと真逆である。セルフサービスメディア(ツール)であるウェブサイトやアプリは、ユーザーが初めて使うときに質問できる相手はいない。「分からない・使えない」は、イコールで離脱、ユーザー数の減少、ひいては事業の失敗に直結する死活問題だ。

他にも、モノ不足の時に技術先行でスタートした時代背景や、「人間は訓練すればなんでも学習できる」「事故原因はユーザーの能力不足」といった過去の認識、「航空機のコックピットのような複雑さ」がかっこいいと持て囃(はや)された価値観、物理的な機器系統の配置場所の問題、防犯上の理由や人命を守るための法律など、数えきれない制約をふまえたうえで成立している超複雑なクルマである。仕方ない部分もある。設計者を責めるつもりは1ミリもない。

それでも、時代は確実に変化している。複雑なものよりミニマルでシンプルなものが良しとされ、モノは所有よりシェアへ。そして、モノではなくコト(ユーザー体験(UX))に価値フォーカスし、UIの磨き込みに成功した巨大テック企業が、着々とクルマ業界に侵食し、カーメーカーが自社開発ではなく彼らの外部OSを採用する流れが起きている。

今、あらためてクルマのUIは本当にこれがベストなのか、考えてみる余地は大いにある。

過渡期で模索中の車内UX

分かりやすいからと言って、何でもかんでもソフトウェア化すればいいというわけではない。物理ボタンは位置を覚えれば手探りで操作できるが、ソフトウェアに表示されたボタンは目でよく見ないと正しく押せない。

TESLAは数個の物理ボタンをのぞき、ほぼすべての操作を主要タッチスクリーンに集約した。実機を操作(運転)したことはないが、ちょっとやりすぎではと思っている。なにしろ画面注視が必須。クルマの基本である前方確認をある意味捨てたデザインである。

Appleが発表したCar Playも助手席まで伸ばしたダッシュボード全面にディスプレイを採用し、iPhoneとクルマの統合を目指しているため、思想の方向性は同じと思われる。

自動運転レベル3以上(運転主体が人ではなくシステム)を前提としているのだろう。確かにそれなら快適な体験ができそうだ。しかし現状ではシステム主体の自動運転時代はまだきておらず、早すぎる印象は否めない。(後付けのヘッドアップディスプレイが売れてるくらいなのだから)

PIONEERは画面のないカーナビを発売している。つまり、音声のみでの案内だ。デモ動画を確認すると、右折左折地点までの距離やタイミングを、通常のカーナビ案内よりかなり細かい粒度で教えてくれていた。幾度もテストを重ね、不安要素を潰しているだけあり、ユーザー目線で設計されていることを感じる。

素晴らしいのは、前方確認を一切妨げず、運転に集中させてくれる仕様。命をかけてチラチラ確認し続けるべき画面が一つ減った意味でとてもユーザーフレンドリーな設計だ(ちなみに音楽を楽しむUXは犠牲になるが仕方ない)

クルマが人間に合わせてくれるUX

人間がラクに努力せず使えるようにするには、人間の五感に負荷をかけてはならない。クルマはどうしても前方確認で視覚が使われる割合が大きいため、操作系は音声UIが主力になっていくのかと思っていたら、面白い事例を見つけた。

Googleは2013年にジェスチャーで制御する特許を取得している。クルマの天井に下向き設置したカメラとレーザースキャナで、ドライバーの動きを認識。窓付近で手を上げ下げすれば窓の開閉、耳の近くで手を振ればオーディオ音量の調整、エアコンの送風口を覆えば空調オフといったUIを開発しているようだ。

人間の認知に沿い、誰でも直感的に理解できて覚えやすく、運転中も無理のない指示出し動作をトリガーにしている点が秀逸だ。まるで助手席にいる人間にお願いしているよう。まさに「機械と人間の対話ができている状態」といえるのではないか。

各社が新機能を水面化で開発している。製品やアイデアは多種多様、どれが実用化され定着するのか今はまだわからないが、「人間が頑張ってクルマに合わせる」のではなく、「クルマが人間へ合わせる(ツール側の設計がユーザーファーストになる)」ことでUXを向上させるべく努力していることだけは確かだ。

結論:ラクなクルマなら運転したいんだほんとはね

優れた道具は使い手と一体化し、道具の操作を意識させずに対象物と向き合うことを可能にする(例えば包丁を使うとき、刃先は腕の延長線上にある)。

現在、クルマと人間が一体化するには、かなりの労力を払わなければならない。クルマを所有することの相対的価値が下がるなか、特に都心部では、わざわざ貴重なリソースを注ぎ込んでまで「(自分で)運転したい」と思う人が増加するとは考えにくい。

クルマ側がユーザーに歩み寄るほど、わたしたちの感じているペインは減る。わたしが17年来の根深いペーパードライバーを克服できたのは、教官からの「視るのは99%前方で大丈夫」という一言だ。認知負荷が圧倒的に減り、運転中のプレッシャーがかなり緩和された。

今後クルマの運転がラクで努力不要になれば、ペーパードライバーが復帰したり、事故が減ったり、何よりクルマのUX自体を楽しめる人が増えるはずだ。

わたしだって好き好んでペーパードライバーになった訳じゃない。運転が好きじゃないだけで、クルマが嫌いな訳じゃない。価値はわかってるし、できることならスイスイ気持ちよく運転してみたい願望だってある。らくらくフォンのクルマ版みたいなので全然いいからさ。

というわけで、自動運転の未来よ、早く来い。と、切に願っている。とはいえ、事故責任の議論や反対勢力との調整、法整備など途方もないハードルを考えるとすぐに実現する気が全くしない。まずはいまのクルマの改善が現実的なところではないか。

では、どうすればいいのか?

まずはリサーチをしてみてほしい。人間(初心者)の認知負荷を極限まで下げるという観点で。運転に不慣れな人、苦手意識を持っている人がどんな風にクルマを使っているのか。意見ではなく行動をみる。(クルマに限らず全ての製品・サービスに言えることだが)絶対に専門家や提供者側の“常識”と違うところがある。

「これが普通」「みんなこうしているはず」というのは仮説に過ぎない。そのギャップがあるところが改善のタネである。

ナビが2時間と算出した距離を、倍の4時間かかるわたしは、ラクなクルマの未来に貢献できるのなら、喜んでペーパードライバー代表で参加させていただきたい次第である。

関連記事