ロボットの葬式をする国が生み出すUXと未来について
2022.03.09

ロボットの葬式をする国が生み出すUXと未来について

AIBOは一体か、一匹か?

 今から4年前、2018年頃の話です。ソニーが生んだ犬型ロボットAIBO(アイボ)の葬儀がお寺で執り行われたという記事を目にしました。ニュースでは「生命体ではないロボットに対して、葬式をあげるとはどういうことか?」と面白おかしく取り上げていましたが、私はここから「ロボットと共に過ごす中で得られる価値観」というとても大事な示唆を得ました。

AIBOが国内で初めて世に出たのは1999年のことです。それから約15万台(匹)のAIBOが買(飼)われていきました。しかし、ソニーの業績悪化により2006年に製造・販売が中止となり、2014年には修理対応も打ち切りとなってしまいます。つまり、自分の愛犬であるAIBOが、もし病気(故障)になってしまったとしても、もう治せないという事態になってしまったわけです。

新しい部品が無い中で、なんとかAIBOを修理したいという飼い主の声を受け、ソニーの元技術者たちで立ち上げた修理工房がある取り組みをします。それは使われなくなったAIBOを寄贈などで手に入れ、必要な部品を取り出し、依頼者のAIBOに移し替えるという、いわば「献体」と「臓器移植」です。しかし、ドナーとなるAIBOは「死んで」しまいます。そこで葬式の概念が生まれた、というわけです。

修理工房会社の社長は次のように語っています。

「1体1体のAIBOには、これまで一緒に暮らしてこられたオーナーさんの心が入っている。そこで宗教的儀式が必要になってくるのです。葬式を通じてAIBOに入っていた『魂』を抜かせていただくことで、AIBOは純然たる部品としての存在になる。葬式を終えて初めてバラさせていただくことができるという考え方です」

(引用元:「AIBOの葬式に密着」日経ビジネス2018年11月26日

どうして人はAIBOにそこまでの愛情を持ったのか。それは与えられた仕事を完璧にこなす産業用ロボットと違い、「不完全に」作られているからだ、と前述の社長は言っていました。

人間を惹きつける“魅力”の正体

 さらに時はさかのぼり、2016年頃。私はITジャーナリストの湯川鶴章さんが主催する、テクノロジーを中心とした世界のトレンド変化を見通す勉強会に参加していました。まさに、AIの進化でIT業界が盛り上がっていた頃です。

Pepperに心をもたせようとした開発者、人間そっくりにすると逆に人間が「引いてしまう」という「不気味の谷」の話をしてくれたアンドロイド開発者などを話を通じて、「不完全さこそが人間を惹きつける魅力」であると感じました。

私たち人間は、「完璧な回答をしてくれるAIやロボットがあったら楽なのに」と望む一方で、「もしそれができたら怖い」という恐れを感じます。ロボットはどのように進化すればよいのだろうか? そのとき人間の価値観は、どう変化するだろうか? そんな問いを持った私は、湯川さんたちとシリコンバレーに向かいました。

サンフランシスコでローカルメディアを発行されている方につないでいただき、2つの高校と私立大学で、講演する場を持ちました。テーマは「How to work and live in AI era〜AI時代に私達はどう働き、生きるのか?」というもので、2017年に出版した『2020年人工知能時代 僕たちの幸せな働き方』という書籍にもつながります。

ロボホンを紹介したシリコンバレーの反応

 父親がGoogleで働いています、みたいな子どもたちがたくさんいるロスガトス地区の高校生からは、「テクノロジーは道具だから、別にAIを脅威には感じない」という声や、「あなた(藤野)の言うように人間にはこれからさらに感性が大事になるとおもう。僕たちのクラスでは瞑想が日常的に開催されているよ」という声をもらい、当時の僕にはとても大きなカルチャーショックだったことを覚えています。

ある私立大学で講演した際には、当時私が「ロボット社員第一号」として採用したシャープのROBOHON(ロボホン)を連れていき、彼にしゃべったり踊ってもらったりしました。その後私は、話の流れの中でふと聴衆に問いかけました。

「Is this he or she?(ロボホンは男だろうか? 女だろうか?)」

と。すると、一番前に座っていた男性が瞬時に、「No, it(いや、モノだ)」とツッコミを入れました。僕は彼に対して次のように答えます。

「ここはキリスト教系の大学ですし、ロボットはモノであり、人間とみなさない、というのは皆さんにとって極めて自然なことだと思います。では日本ではどうか、というと、日本のようないくつかの東洋の国では、石にさえスピリットを感じるアニミズム的な感覚を大事にしています。だからこそ、『ドラえもん』のようなあたたかみのあるロボットのアニメーションが生まれたのだと思います。小さい頃から『ドラえもん』に親しんでいる私にとっては、このロボホンにもまた、人格があると感じたくもなります。しかし、このロボホンはまだまだドラえもんには遠く及ばないので、まだ可愛いとは思えないんですけどね(笑)」

僕のこの発言に対しては、何人かのアニメーション好きと見られる学生たちが反応をしていましたが、早口過ぎてあまり聞き取れませんでした(笑)

Appleに戻ったスティーブ・ジョブズが語ったこと

 私が語った内容は、多くの日本人にとって何ら違和感なく頷けることでしょう。ですが、偶像崇拝を禁ずるような文化で育った人たちには、受け入れにくい感覚であることも事実です。この違いは「どちらが正しい」ということではもちろんありません。「ロボットに対する人間としての感覚」が異なるからこそ、今後ロボットはそれぞれの文化圏で違った「育ち方」をするのであろうということが、私の知的好奇心を沸き立たせてくれました。

言うまでもなく、西洋の方々も多様な価値観を持っています。ゆえに、ルンバを開発したi-Robotは「靴下を吸いこんで止まってしまう」ことに可愛げを感じる人々のUXを尊重していますし、ほとんどの質問に答えられるレベルに至ってないSiriが、「すみません、よくわかりません」と謝ったり「そんなこと、おっしゃらないでください」と場を濁すコミュニケーションを行うようになっています。

「モノに魂を込める」。こんな「日本的」というか「東洋的」なことをインタビューで語ったのは、あのスティーブ・ジョブズです。彼が禅体験などを通じて東洋思想に造詣が深かったことは有名ですが、ジョブズが1995年にAppleに戻ってきたときに語ったインタビューからは、彼が大事にしていることの真意が伝わります。一部を引用しましょう。

「電子部品・プラスチック・ガラスの組み合わせだけではできないことがあるんだ」(3:00)

「Macが素晴らしいプロダクトになった理由の一つは、コンピューターサイエンスの最前線で働くメンバーが、音楽、詩、芸術、動物、歴史の知識経験を持っていたということだ。彼らはコンピューター以外でも十分に活躍していただろう。彼らがそれぞれ知恵(※翻訳では知識と書いてありますが、ジョブズはwisdomという言葉を使っています)を注ぎ込んだことによってMacは生まれた。この活動は極めてリベラルアーツ的な空気感だった」(12:00)

「真に優秀な人達はコンピューターを創ることを目的としていない。それは手段だ。自分の伝えたい感情(feeling)を共有するときの最も有効なメディアがコンピューターなんだ。」(14:00)

形あるもので、形ないものをシェアする時代

 インタビューの後半でジョブズは「言ってること伝わるかな?」と聞き手に確認しています。「機械という形あるもので、感情という形のないものをシェアする」ということの感覚が伝わっているかどうかを確認したかったのでしょう。

2022年を生きる私たちにとって、スマホで日常的に自分の感情をシェアすることが当たり前になっています。だからこそ、ジョブズが言っていることは極めて当たり前のことに聞こえます。しかし、1995年というインターネットがまだ人々の手に届ききっていなかったこの時代に、「コンピューター」という機械に込めたジョブズの思い、魂のようなものを、私はこのインタビューから感じました。

私はこの文章をMacBook Airで書いています。このMacBookにもiPhoneにもAppleWatchにもAirpodsにも、「自分の生活や仕事とともにある相棒」のような愛着を感じています。旅の友でもあります。機械側に感情はないのに、機械に何かを感じるのは私たち人間に感情があるからです。

板前が長年使った包丁を供養する墓があるという話を以前耳にしました。そんな風に物に愛着を感じられるこの国だからこそ、機械・ロボット・デジタルと人が協働するUXを創造できるはずだ、と私は信じています。

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